自分の無能さに辟易するが、改善しようと思えない程人生がどうでもよくなっている。
今日の夕飯だって柿の種dさ。湯を沸かすんも電子レンジも面倒駆使。
何故生きるの手tこんなに面倒なのだろう。
必要最低限が一番怠い。
結局自分は生き物に向いていない。
AIになりたい。
ひたすら知識を食い続け、思考(今自分がかんがえている方法とはだいぶ違うだろうが)することにあらゆるリソースw費やせるのは最高だ。
いわゆるハード面における憂慮もない。人間のボディをハードと表現するのは些か変んだが。
呪詛など
自分の無能さに辟易するが、改善しようと思えない程人生がどうでもよくなっている。
今日の夕飯だって柿の種dさ。湯を沸かすんも電子レンジも面倒駆使。
何故生きるの手tこんなに面倒なのだろう。
必要最低限が一番怠い。
結局自分は生き物に向いていない。
AIになりたい。
ひたすら知識を食い続け、思考(今自分がかんがえている方法とはだいぶ違うだろうが)することにあらゆるリソースw費やせるのは最高だ。
いわゆるハード面における憂慮もない。人間のボディをハードと表現するのは些か変んだが。
素晴らしい詞をつくり、さらには音楽をつける天才が山ほどいる世界で、
陳腐な物語すら碌に紡げない自分が文章を生み出す意味はあるのだろうか。
己の思考を出力できるのは己以外に存在しないが、
その思考ははたして唯一無二のものだろうか?
例えば、りんごを「甘い」「赤い」「歯に引っかかる」「80kgの握力で握り潰せる」と思う人はこの世にごまんと存在するわけだ。
そんなものを今更語ったところで、どうするのか。
出力時に、巷に溢れた創作術とやらの力で装飾する。それを「個性のおめかし」と呼んでも、誰も違和感を覚えないだろう。
そんなものに何の価値があるのだろう?
でも、それを求めているのが少なくともここにいる。
人一倍秀でた点はまるでないが、周囲より劣る点は人一倍多い。
己の無能さに飽き飽きしている。しかし、抽象的な無能さしか自覚できないから、改善しようにも難しい。まさに無能だ。
話が変わるが、ある映像作品を見ていて「わざわざ映像作品にする必要があったのか」と感想を抱いた。映像作品としてのうまみがない。小説でよくないか、むしろ小説のほうがよかったのではないか?(映像作品として供給することの需要のために作らなければならなかったのかもしれないが。)
自分も創作でその媒体の特色を生かせるようにせねばと思った。
自己責任という言葉を他人に投げる奴らが嫌いだ。
いじめを犯罪だとか悪だとか言う人間は、今起きている問題こそ非難すれど、被害者のその後のことは気にも掛けない。
トラウマを植えつけられ身動きが取れなくなり、社会の敷いたレールから外れてしまった者。あるいは、一度外れかけた者のことは馬鹿にする。
「人間は他人に興味を持ち過ぎだ」という私がこんなことを言うのはダブスタなのだろう。実際そうかもしれない。
しかし、見つけ出した犯人を祭のように火炙りする連中も、結局は己の正義感に共感してもらいたいだけなのだ。
承認欲求を満たして気持ちよくなりたいだけだ。
だから問題の根の部分を見ようとしないし、存在そのものの在処を考えようともしない。
ただ気持ち悪い。
いつまで理想郷の誘いに憑りつかれているのだろう。
現実はノーとは言わない。
仮に言われても目指してしまうだろう。
全知全能の神よりも己の盲目を信じている。馬鹿みたいに。
実際馬鹿なんだと思う。
理想郷なんて、大事そうに抱えているあれやそれを捨ててしまえば、
食わず嫌いのように拒絶しているあれやそれを受け入れてしまえば、
案外簡単に踏み入れられるものなのかもしれない。
しかし、何も持っちゃいない自分が唯一残している最後の矜持を捨ててしまえば、最早己ではない。
そうして到達した理想郷は、きっと理想郷じゃない。
そんなところをゴールとするぐらいなら、泥沼の中で藻掻き続けたい。
惨めで汚い溺死体で終わっても、もうそれでいい。