2024年3月11日月曜日

日記

 己の人生に虚無感を抱き始めたのは大学時代に鬱を患った時からだと思っていたが、もっと前からだったんじゃないかと疑い始めたのはつい最近のことだ。

過去の選択について、いわゆる"if"を考えることがある。それは、「あのときあっちを選んでいたらどうなっていたのだろう?」という類のもので、己の下した選択が明確に間違えていたわけではなく、後悔ともまた違う。ただ、漠然と他の選択のほうがよかったんだろうなという予想はある。

そのひとつが高校受験だった。

もともとは部活が理由で、偏差値が同等の別の高校を希望していた。しかし、家庭内の諸々の事情との兼ね合いで叶わなかった。
そして、冒頭で述べた虚無感を抱いたきっかけがおそらく部活だった。断言はできないし、他にも要因はあっただろう。ただ、そのイベントを契機に明らかにおかしくなった。
わかりやすかったのは、放課後や休日の自主学習にまったく手がつかなくなったことだ。それまで、定期試験前などの部活のない時期は、平日の完全下校時刻までや、休日学校に来て丸一日問題集を解きまくったりしていた。それができなくなった。問題集やテキストを開くだけで力尽きたような状態になり、義務感や焦燥を食らい尽くす無気力に襲われた。

高3の半ばまで本気で目指していた大学も、どうでもよくなってしまった。

高校選択が確固たる後悔の記憶でないのは、当時出会い今も交流の続いている素晴らしい友人がいるからだ。それに、引き金となったのは高校時代の事件であっても、その問題だらけの気質が形成されたのは紛れもなく中学時代である。

突然こんな話をしたのは、ちょうど13年と1日前に高校入試があったのを思い出したからだ。小学生の卒業式と違い、中学は卒業生合唱はありながらも厳しい練習は求められなかった(在校生のほうが求められていた)こと、さらに、入試まで義務教育の範囲の学習を終えていなければならないので、以後授業がなかったこともあり、入試翌日は宙に浮いたような感覚だった。

初めて体感する非日常感は、その日の午後さらに強まることになった。地元は丸一日+αの停電被害で済んだような地域だったが、空気というか、世界がはっきりと変わったような気がしたのは覚えている。

かの震災の日、今の小学生以下はまだ生まれていなかったという事実に衝撃を受けるのは今更か。しかし、熊本地震もいつの間にか今の小学生低学年以下の子供たちは生まれていない時代になっている。

少しずつ受け継がれる立場から受け継ぐ立場に変わってきているのを感じる。



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